映画「毛皮のヴィーナス」を見ての感想(あらすじ・ネタバレ注意)

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オフィスで仕事をしていたら、無性に映画が見たくなった、調べると、センチュリーシネマで、フランス映画など僕の好きそうなものが何本かやっていた、「毛皮のヴィーナス」の予告編で度肝を抜かれ、18:35分にオフィスを出て、大急ぎで18:50の上映にかけつける。

ロマン・ポランスキー監督の最新作

日本では「戦場のピアニスト」でお馴染みの監督ではないだろうか。戦時の緊迫感と、震えながらピアノを弾く主人公に胸を打たれたことを覚えている。御託は抜きで以下の予告編を見て欲しい。好奇心が刺激され、衝動的に見にいくことにした。

 

大まかなあらすじ

この映画は劇場を舞台にたった2人の演者だけで進行していくがそれを感じさせない程、展開が早く見る者を引き込んでいく。舞台演出家のトマは舞台「毛皮のヴィーナス」のヒロイン探しで苦労していた。「どいつもこいつもしょうもない」と悪態を付きながら、引き上げようとしたところに、びしょ濡れの汚い格好の品のない(若くもない)ヒロインと偶然同じ名前の「ワンダ」と名乗る女が、「遅刻しちゃったけど、舞台のオーディションに来た」と悪びれずやってきた。そのあまりのガサツさに、トマは彼女を帰そうとするが、ワンダの強引さによって、しぶしぶ台詞合わせをすることに。ところがいざステージに上がったワンダは役を完璧に理解し演じる、あまりの完璧さにトマは惹き込まれていき、次第に役と現実の境界があいまいになり、二人の立場が変わっていき、トマは不思議な体験を連続的に味わうことになる・・・・とこんな所だろうか。

サスペンスものとしての解釈

謎の女ワンダが一体なんだったのか?ということがこの映画のサスペンスとしての「オチ」だと思う。僕が思うに彼女は、神がトマを罰する為に送り込んだヴィーナスという超常的な存在ということなのだろう。

トマは様々な不思議な体験をするが、それら伏線の回収は「彼女が人を超越した何かだった」ということになるのだろう(多分)

「毛皮のヴィーナス」はマゾヒズムの語源になったザッヘル・マゾッホが1871年に書いた小説

マゾッホの小説に出て来る「精神的な苦痛を快楽と感じる」描写がのちにマゾヒズムと名付けられるわけだが、この映画でもマゾヒズムに関する本質に迫る描写がある。ワンダは当初セヴェリーンの「鞭で打って欲しい」や「靴で踏んで欲しい」という欲求を拒否するわけだ。しかし、物語の後半ではとてつもないサディスティックな女性になってしまう。これを見て思い出したのは、名古屋出身の芥川賞作家、中村文則氏の「王国」での一説で、「サドを支配しているのはマゾだ」というものだ。「王国」では合わせて「スタンフォード監獄実験」の紹介もされていてなるほどと思ったわけだが、興味がある方は一度調べられてみるのもいいだろう。いずれにせよ、このオリジナルな「毛皮のヴィーナス」がモチーフとなり、表現されているのだろうが、まだ僕では到底解釈し切れていない。

まとめ

フランス映画はやはり難解で、わからない所がいっぱい。また、女性というものは到底男には理解できないのではないかと困惑しそうにもなった(笑)

こういうものは他人と議論することで、より深い理解が得られる。今から映画好きが集まるバーにでも行こうか。

追記(12/26)欲望を満たそうとして罰されたトマ。その罪とは?

当該記事に思いの他アクセスが集まった。たくさんの人が見ているのに、あの程度の解釈では男がすたると、再度筆を取ることにした。印象的なシーンとして、ワンダとトマの役柄が入れ替わるシーンがある。「あなたの方が、『ワンダ』を完璧に理解している、あなたが演じるべきよ」とそそのかされ、トマは口紅を引き、『ワンダ』を演じる(二重カッコのワンダは舞台の登場人物としてのワンダ。他は現実のワンダと名乗る女ということにする。)

その結果、トマがこの舞台で何を表現したかったのか = 自分の欲望を満たしたかった ということが明らかになり、その結果罰される。ということだ。しかし「欲望を満たしたい」ということは果たして罪であろうか? この問題について私なりの仮説を立てるならば、「マゾヒズムというものを巧妙に使うことで、女を支配しようとしたことが罪に当るのではないか?」ということになる。ここまで来ると、Nobody knows というか、ポランスキー監督のみぞ知る、哲学であろう。ポランスキー監督も齢80歳を超えていると聞く。つくづく面白いおじいさんだ。

2014/12/20

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